第2章 こんな茶番、もう付き合いきれない

外の喧騒は、いつの間にか遠のいていった。長谷川栞は何が起きていようと構わず、耳栓とアイマスクをつけたまま朝まで眠り込んだ。

家に戻って家業を継ぐと決めた以上、こちらの仕事は辞めるしかない。

蓮を産んでから、彼女が会社に顔を出すことはほとんどなくなった。けれど中野航平が家業を継いだ当初、隣で一つずつ積み上げてきたのは栞だった。

華辰がいま全国一位まで上り詰めたのは、彼女の支えも決して小さくない。

だから出社しなくても、毎年莫大な配当とボーナスが入ってくる。

朝。鏡の中の自分を見つめる。ゆるく巻いたダークブラウンの長い髪。小ぶりで整った顔立ち。けれど瞳には、笑みが一滴もない。

美しい――主婦になって昼も夜も追われるように動いていても、造形だけは崩れない。

ただ、つわりの吐き気と、家の人間の冷たい仕打ちに削られて、目が死んでいた。生気のない魚みたいに。

華辰グループ最上階。長谷川栞は退職届が印刷されるのを待っていた。

その背後から、社員たちの声が聞こえてくる。

「中尾美希のSNS、見た?」

「まだ。何上げたの?」

「めっちゃ上げてる。誰かの誕生日っぽい。見てみなよ」

笑いながら話していた彼らは、栞に気づいた瞬間、表情を凍らせた。

「は、長谷川さん……」

「長谷川さん、今日は会社に……?」

栞は適当に頷く。社員たちは挨拶もそこそこに、逃げるように去っていった。

背中越しに、ひそひそ声が漏れる。

「最悪、長谷川栞が来た」

「社長夫人の座まで登ったのに、何を見せびらかしに来たんだよ」

「中野社長と仲良さそうに見えないし、離婚するんじゃね?」

何の反応も返さない。社内で彼女の評判が良くないのは、とうに分かっていたし、慣れてもいた。

かつて職場で散々な目に遭い、それを中野航平に助けられた。だからこそ、彼を好きになった――ただ、それだけの話だ。

待ち時間が退屈で、栞はスマホを開いてSNSを覗く。

飛び込んできたのは、中尾美希の九枚の投稿。

一枚目は昨夜の蓮の誕生日パーティー。豪華な飾りつけ、中央の三段ケーキがやけに目立つ。

栞の目を引いたのは、病院で撮った写真だった。大きさの違う三つの手が重なっていて、妙に温かい。

火傷程度で、どうして病院まで?

可笑しくなって、コメント欄を眺める。祝福と羨望ばかりだ。

「わあ、子どもの誕生日パーティー? 幸せすぎ!」

「また惚気てる。お義兄さん誰? 見せてよ」

「何があっても家族が一緒なら一番だよね」

「……」

わざとだ。怒らせて、泣き喚いて、中野航平に詰め寄らせたい。

昔なら耐えられなかっただろう。自分の夫と息子が、家にいる自分を置き去りにして、最初から最後まで自分の真似をする女を気遣っている――そんな光景は。

けれど今は違う。もう出ていくのだ。どうでもいい。

栞は口角をわずかに引き上げ、指先でハートを押した。赤い「いいね」が灯る。

退職書類を受け取ると、彼女はすぐ社長室フロアへ向かい、中野航平のそばにいる秘書へ提出した。

秘書室の人間も、さっきの社員たちと同じく「見せびらかし」だと思っていたのだろう。だが退職届を見た瞬間、声が上がった。

「え……うそ」

「長谷川さんが退職?!」

秘書の顔が引きつる。惶てた声で言った。

「お、奥様……社長は重要な会議中で……終わってからお渡ししたほうが……」

「必要ないわ。名ばかりの秘書長だもの。あなたに審査権限がある。わざわざ彼に手間をかけなくていい」

栞は薄く笑った。

周囲の囁きが膨らむ。

「噂、本当か? 長谷川栞と中野社長、離婚するって?」

「相手、中尾さん?」

「でも中尾さんって既婚じゃ……」

「バカ。SNSの手、どう見ても社長のだろ。あのロレックス、帝京市で似合うの社長くらいだ」

「産休入ってから、仕事全部中尾さんが引き継いでたしな」

「退職って、席を譲るってことだろ!」

昔なら、夜に布団で泣いていた。

今は、妙にどうでもよかった。

栞は聞こえないふりで微笑み、丁寧に頭を下げる。

「十年間、お世話になりました」

「華辰がこれからも、末永く栄えますように」

気まずい空気の中、彼女は自分のデスクへ戻り、私物を片づけ始めた。

十年分。机はぎっしりだ。入社当時に買った資料本、秘書になってからのメモ。

そこには、はっきり書かれている。

1、毎朝、コーヒーを一杯

2、遅刻が嫌い

3、女に香水をつけさせない

……

一つ一つが、栞の時間だった。

秘書は「身体でどうにかなる仕事」だと決めつける人間もいる。けれど中野航平だけは見ていた。深夜まで残業し、契約書を読み、プレゼン資料を作り、華辰の競合を洗い、業界ニュースを頭に叩き込む彼女を。

努力したからこそ、雲の上の存在だった「御曹司」が自分のもとへ降りてきた――そう信じていたのに。

中野航平が、この先いちばん自分を理解してくれる人だと思っていた。間違いだった。

たった十年。積み重ねた想いも、結局は灰になる。

片づけに集中していると、会議が終わったらしく、中尾美希が先に出てきた。

上機嫌だった彼女は、栞を見た瞬間に顔を固める。

――来た。SNSを見て、詰め寄って、発狂するつもり?

中尾美希は内心でほくそ笑みながらも、表では目を赤くして俯き、徹底して被害者を装う。席へ戻り、嵐が来るのを待つようにそわそわしていた。

最後に中野航平が出てきた。秘書室を通りかかった彼は、栞が出社しているのを見て眉をひそめる。

彼女の席は社長室に一番近い。かつては二人の「特別」の証だった。

だが今、彼は栞の姿を見るだけで苛立つ。

しかも彼女は機嫌が良さそうに本をめくり、口元に薄い笑みまで浮かべている。

隣の席では中尾美希がしょんぼりと涙を拭っていた。

中野航平は栞の机の角を、こつ、と軽く叩く。

「入れ」

栞は顔を上げ、平然と答える。

「分かった」

入室して、彼の第一声はこうだった。

「会社は今、お前を必要としていない。特別な事情がない限り、今後は華辰に来るな」

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